第零話 龍之刻


「―――」
「…?いかがなされましたか、館長」
「いや、何でもない」
「そうですか。それでは僕は失礼いたします」
 少年が部屋から出て行くのを見計らい、フゥと溜息を吐いた。
「まだ、感じ得ぬか。この【龍脈】の鼓動を―――」
 ブラインドを少し開け、空を見上げた。
「……あの娘の様子を見に行くか………」


 すっかり季節は変わり、紅葉の季節も過ぎ去った。冬が間近だというだけで、街の雰囲気はガラッと変わっていた。もちろん街だけでなく、学校にも様々な変化が現れていた。
 明日香学園高校。
 この学校にも、冬は確実に訪れていた。制服はずいぶん前に冬服になり、校内のプールや池には氷がはるようになった。だが、相も変わらず平凡な日々が過ぎていた。
「――それじゃ今日はここまで。来週の水曜に試験をするから、ちゃんと復習しておくように」
 授業が終わり、号令がかかった。それと同時に、教室内がざわめき始めた。
「次、生物だっけ?」
「ねェ、この間のさ―――」
 口々にお喋りをしながら、2ーCの生徒たちが教室を出て行った。そして少女も立ち上がり、用意をまとめて移動しようとしていた。
 少女の名は緋勇麻雪。
 この学校で過ごして既に一年と半年を過ぎていたが、未だに友達と呼べる人もいない日々を過ごしていた。人見知りする性格と、少し内気な性格から、なかなか友達が出来なかったのだ。
そしてそれ以上に、彼女の金色の右目が、周囲の人を近寄りがたくしているのだろう。

  ドンッ

 麻雪が廊下へ出たところで、誰かとぶつかって、尻餅をついてしまった。
「ごめんね。大丈夫?」
 ぶつかったのは、黒い髪に制服のリボンと同じ黄色のリボンを結んだ少女。少女は麻雪に手を差し伸べた。
「だ、大丈夫です…」
「良かった。荷物をもってて、前が見えなくて…」
 そこまでいうと、少女は小さく、あッ、と呟き、麻雪を見た。
「あたし、もう行かなきゃ。これ、教室まで運ばなきゃならないの」
 少女は落とした荷物を拾い始めた。
「あの…手伝いましょうか?」
 その少女のことが放っておけず、麻雪は荷物を運ぶのを手伝おうとした。
「え…。いいわよ、ひとりで運べるから」
「大変そうですから、手伝います」
 拾った荷物を麻雪はそのまま自分で持った。
「あッ――ありがと…本当はね、結構大変だったんだ」
 ニコッと笑った少女は、麻雪に付いてきて、と言って歩き出した。
「あたし、2ーAの青葉さとみ。あなたは?」
「2ーCの緋勇麻雪です」
「麻雪ちゃんか。こうやって、知り合えたのも何かの縁かもしれないし、よろしくね」
「よろしくお願いします」
 お互いに顔を見合わせて微笑んだ。
「うん。違うクラスだけど、仲良くしましょ」
 青葉さとみと名乗った少女は、再び前を向いて歩き始めた。
「でも、不思議ね。あなたみたいな人がC組にいたら、気づきそうなものだけど…」
 さとみは首を傾げた。
「今まで、うちの学校にいたことも知らなかったわ」
「でも、きっとほかのクラスの人なんて、そんなものだと思いますよ」
「教材を運ぶようにいってくれた先生に感謝しなくちゃね」
 やがて、目的の教室に到着した。
「それじゃ、ここでいいわ。ありがと、手伝ってくれて」
「たいしたことはしてませんから」
 麻雪の言葉に、さとみは微笑んだ。
「ほんと、助かったわ。じゃ、またね」
 そういって教室に入ろうとしたさとみは、誰かにぶつかってしまった。
「きゃッ」
 ぶつかったのは、細身の少年だった。その少年は、何も言わずに、ジッとさとみを見ていた。さとみはぶつかったときに落ちてしまった荷物を拾おうとしていた。
「おいッ、ちょっと待てよ―――」
 教室の中から、A組の生徒らしき少年が、細身の少年に声をかけた。
「ぶつかっといて、あやまりもしないのかよ?」
 食って掛かるように細身の少年に詰め寄った。
「比嘉くん…」
 比嘉と呼ばれた少年は、さらに細身の少年に言う。
「……落ちた荷物ぐらい、拾ってやってもいいんじゃないか?え?莎草――」
「あッ、比嘉くん、あたしは、大丈夫だから―――」
 全く無言である莎草は、比嘉に一瞥をくれると、そのままどこかへ行ってしまった。
「おい――何だ、あいつ…」
「………」
 比嘉はさとみの方を振り返った。
「さとみ、大丈夫か?」
「うッ、うん」
「ほら、拾うの手伝ってやるよ」
「ありがと、比嘉くん」
 荷物を拾っている途中、麻雪の存在に気づいたのか、比嘉は顔を上げた。
「―――ん?」
「そうそう―――紹介するわ。彼女、C組の緋勇麻雪ちゃん」
 いきなり紹介されて、慌ててお辞儀をした。
「緋勇…?そういえば、なんとなく、見覚えあるなァ」
 比嘉は手を差し出してきた。
「俺は、さとみと同じ2ーAの比嘉焚実。さとみとは、幼なじみって奴さ」
「いわば、腐れ縁ってやつね」
「はははッ」
「そうなんですか…」
 麻雪は、この二人はほんとに仲良いんだな、と感じた。それがうらやましかった。
「…さっきの奴も、うちのクラスなんだけどな。莎草覚っていって…」
 話題は莎草の話になった。莎草は、三ヶ月前に転校してきて、東京都内に住んでいたらしい。今はどこに住んでいるのかはわからず、友達もいないらしい。
「…何か、湿っぽくなっちゃったけど、緋勇、よろしくな」
「はい、よろしくお願いします」
「そういえば、さっきから気になってたけど…」
 ドキッとした。全然気にしてなかったけど、麻雪の右目のことを言っているのだろうか?
「……麻雪ちゃん、敬語なんて使わなくていいんだよ」
「…え?」
「そうそう。俺たち、今から友達になったんだ。堅苦しい敬語なんてなしでいこーぜ」
 友達という単語を聞いて、麻雪はとても嬉しくなった。
「いいの…?」
「もちろんよ、麻雪ちゃん」
「……おっと。楽しいところ申し訳ないけど、早く教材もっていかないと―――」
「そうね。麻雪ちゃん、じゃあまたね」
「うん」
「今度、三人でどっか遊びに行こうぜ」
 麻雪はニコッと笑って返し、二人と別れて生物室へ向かった。

 放課後になり、麻雪は家に帰るため、正門まできた。クラスメイトの何人かに声をかけられ、帰路につこうとした彼女は、正門前に誰かが立っているのが見えた。
麻雪の姿に気づくと、その男は声をかけてきた。
「緋勇麻雪さん―――だね?」
「…はい。そうですが」
「捜したよ」
 その男は鳴瀧冬吾と名乗った。
「君の実の父親―――緋勇弦麻のことで話がある」

 そのまま明日香公園までやってきた二人は、ベンチに腰を下ろした。麻雪は、父・弦麻のことで話があるといわれたからには、断れず、鳴瀧についてきた。
「突然学校まで行って、迷惑だったかもしれんが、どうしても早く君に会う必要があってね」
 鳴瀧は一言「許してくれ」と呟いた。
「大丈夫です。全然迷惑じゃないですから」
「ありがとう。君の寛大な心に感謝するよ」
 麻雪の頭をクシャクシャ、と撫でた。不思議なことに、とても懐かしさが広がった。
「君の記憶の中では私に会うのは初めてだろう」
「はい」
「最後に会ったのは、君がまだ、言葉も喋れないぐらい、幼い頃だったからね」
 そこまで言うと、鳴瀧はジッと麻雪を見つめた。
「その瞳とその雰囲気―――君の両親である弦麻と迦代さんの面影がある…」
「父様と母様を知っているんですね…あなたは」
「ああ。…ずっと、私は敢えて君とは関わりを持たなかった」
 何故だかわかるか?と質問されて、麻雪は首を横に振った。
「それが―――弦麻の遺言だったからだ…」
 鳴瀧は、何やら物思いにふけっているようだった。恐らくは、弦麻のことを思い出しているのだろうと麻雪は感じた。
「……すまん。少し、昔を想い出していた…」
 フゥ、と大きな溜息を吐いた。
「君は、両親のことを知らないんだったな」
「義父に教えてもらったこと以外は」
「健人は弦麻のことは、あまり知らぬ。私の口からは何もいえないが、いずれ知ることもあるだろう」
 弦麻の弟で、現在の麻雪の義父である健人のことも知っているらしい。
「だが、一つだけ教えておこう。昔――弦麻と私は、表裏一体からなる古武道を習っていた」
「古武道…?」
「とても…歴史が古いものでね」
 その古武道は、無手の技を極めるもので、継承者は素手で岩を砕くことが出来るというものらしい。
 弦麻が表の陽の技を、鳴瀧が裏の陰の技を習い、違う師についていたが、同門の徒だったということだ。
「緋勇家は先祖代々陽の技を伝承する家系でね。君の身体には、その血が連練と流れている」
 鳴瀧は自嘲的に笑った。
「いきなりこんな話をされても、信じられないかもしれないが」
「……そうでもないです」
「そうか。…まァいい……君は弦麻が何故―――」
 最後まで言わず、鳴瀧は言葉を詰まらせた。
「……いや。そういえば――最近、君の周りで奇妙なことはなかったか?」
「え…わからないです」
「心当たりがないなら、それでもいい。私が、君に会いに来たのは、忠告をするためだ」
 麻雪の瞳をジッと見た。
「異変というものは平穏な日常の陰から、いつでも現世の世界に這い出てこようとしている…」
 一息吐いて再び喋り出した。
「君が、望むと望まないとに関わりなく、それはやって来る―――」
「……」
「そのことは、深い因縁――因果によって定められていることだ」
 悲しそうな瞳で麻雪を見つめる。
「…私のいっている意味はまだわからないかもしれないが、覚えておくんだ」
 鳴瀧が言うには、ここ数日の内にこの街で何かが起こるらしい。そして、それに対処するために動いているのだが、くれぐれも気を抜かないように、ということだ。
「ここ一,二ヶ月の間に、君に近づいて来た者にも注意するんだ。いいね」
「はい」
「うむ…何かあったらここを訪ねるといい。私の道場がある」
 近い内に、仕事の関係で海外へ旅立つらしいが、もうしばらくはここに滞在しているらしい。鳴瀧は「また会おう」と言い残して去っていった。

「お帰り、麻雪」
 自宅へ帰って来るなり、義兄である龍麻が声をかけてきた。弦麻の弟の健人と妻の友依との間の子で、麻雪とは同年齢である。
しかし、彼の方が誕生日も早く、兄ということになっている。龍麻は麻雪とは別の高校に行っているのだ。
「今度の冬休み、また東京に行くけど…一緒に行くか?」
 龍麻はたびたび東京の方まで出かけている。そのたびに、いろいろな話をしてくれるのだ。そして、麻雪は東京に対して、憧れの気持ちを持っていた。
「うん!行きたいッ!」
「じゃ、楽しみにしてろよ」
 そういって龍麻は自分の部屋に戻っていった。麻雪も自分の部屋に戻る。彼は、麻雪とは血は繋がっていないのだが、麻雪のことを実の妹のように可愛がってくれている。
事実、二人の血が繋がっていないことを知らされたのは、中学へ入学したときだった。
「ふぅ」
 着替えて、ベッドに腰掛ける。ふと、チェストの上にある綺麗な小石数個が目に入った。
「京一くん…」
 その小石は、子供の頃に仲良くなった少年にもらったものだった。龍麻以外で初めて仲良くなった同世代の友人。
彼女の金の瞳を綺麗だ、と言ってくれたその少年のことを、麻雪は未だに忘れていなかった。いつかまた逢えることを信じている。
「京一くん。私にもお友達、出来たよ…」

「緋勇!おすッ」
「あ、比嘉くん…おはよう」
 朝学校へ来ると、比嘉に声をかけられた。麻雪は笑顔で返した。
「また会えたな。今までお互い、顔も知らなかったのに…不思議なものだな」
 比嘉ははははッと笑い、再び麻雪を見た。
「そうだ。放課後に喫茶店でも寄ってかないか?俺たちの友情の証にさ」
「うん。行きたい!」
 微笑んだ麻雪に、比嘉はドキッとした。その笑顔がとても可愛かったのだ。
「ひゆ……」
「放して下さいッ!!」
 麻雪の呼びかけようとした比嘉の声が、女生徒の声でかき消される。二人は声のした方を見た。そこには男生徒が女生徒の腕を掴んで、どこかへ連れて行こうとしている姿があった。
「…?あれ、お前のクラスの女子じゃないか?」
「うん…そうだ」
「ちッ、何で誰も助けてやらないんだ?」
「行こう、比嘉くん」
 二人は女生徒の方へ駆け寄った。
「おいッ」
「……?」
「何やってんだよ、嫌がってるじゃないか」
 女生徒は比嘉に助けを求めた。
「その手を離せよ」
「………ちッ」
 女生徒は、慌てて麻雪の後ろに隠れた。
「まったく何やってんだよ」
「莎草さんが、連れて来いっていってるんだ…」
 男生徒は恐怖に怯えている様子で話した。
「莎草が…?」
「どけッ」
「どく訳ないだろ?どうしたんだよ、いったい。何で莎草の言いなりになってんだよ?」
 もう一人の男生徒が、小さな声で呟いた。
「あいつは……恐ろしい奴だ。あいつには、誰も逆らえない。いずれお前にもわかるさ…」
 そのまま、二人は去っていってしまった。
「行っちゃったよ…なんだ、あいつら」
「あ…ありがとう、比嘉くん、緋勇さん」
「あァ、大丈夫だった?……どうしたんだ?」
 比嘉の問いに、女生徒は首を振った。
「わからない。いきなり一緒に来いっていわれて…怖かった……」
 女生徒は教室の方へ走っていってしまった。
「…ん?」
 ふと、廊下の奥を見ると、莎草がこっちを見てた。
「あいつ…何を見てたんだ?」
「なんか、気味悪いね…」
   キーンコーンカーンコーン……
 ちょうどチャイムが鳴った。麻雪と比嘉も、お互いの教室へ別れていった。

 放課後、比嘉と約束したとおり、一緒に帰ることとなった。もちろんさとみも一緒である。
「―――すっかり遅くなっちゃったな」
 明日香公園まで来たところで、比嘉が呟いた。時刻は既に五時近くとなっていた。
「まったく、比嘉くんがいけないんだからね。宿題なんて忘れて、先生に呼び出されるから…」
「だけどさ―――たかが宿題忘れたぐらいで説教もないと思わない?」
小学生じゃないんだから……と付け加えるように呟く。
「小学生は注意されたら守ろうとするものね。毎回宿題忘れるなんて、怒られて当然でしょ?」
「うッ…それは…」
 さとみの正論に、すっかり口ごもってしまう。さとみは溜息を吐いてから麻雪を見た。
「麻雪ちゃんもそう思うでしょ?」
「でも…人間だから忘れちゃうことはあるから仕方ないよ」
「やれやれ…麻雪ちゃん。こういうのを甘やかしても、何にもならないわよ」
 肩をすくめて再び溜息を吐く。
「こういうのとは何だよ、こういうのとは―――」
「ほんと、本人に自覚がないのが、一番の問題よね…先生に同情するわ」
「……」
 比嘉は口を尖らせて、むぅ、と呻った。
「さ。それじゃ、お茶でもして帰りましょうか?」
 話の転換をうまい具合に持って行ったさとみに、賛成の言葉を発した比嘉。そしてそれにつけ込んで比嘉のおごりという話にしてしまうさとみ。
こういうやり取りを見ていると、やはり二人は幼なじみなのだな、と実感する。
「本気かよ…」
「とーぜん。終わるの、待っててあげたんだから」
「うゥ…今月、金ないのに…」
 鞄の中から財布を取り出し、中身を確認しながら呟いた。
「あ、大丈夫だよ…私お金あるから…」
「いーのよ、麻雪ちゃんッ。そんな心配しなくても」
 財布を出そうとした麻雪を制するさとみ。
「ああ。緋勇は心配しなくてもいいさ。緋勇の分くらいなら奢ってやるさ」
 比嘉も、その意見には賛成のようだ。
「でも…悪いから」
「大丈夫。今回のは、俺が言い出したことだし…緋勇と俺たちの友情記念ってことで」
「……ありがとう、比嘉くん」
 いえいえどーいたしまして、と照れている比嘉に、さとみが麻雪に聞こえない程度の小声で話しかけた。
「(ひょっとして…比嘉くん、麻雪ちゃんに惚れた?)」
「(なッ?…いったい何言い出すんだよッ!)」
「(へー…図星ね。そーよね、麻雪ちゃん、可愛いもの)」
「(だーかーらー……)」
「…?どーしたの、二人とも?」
 そんな二人を麻雪は不思議そうに見ていた。
「ううん。何でもないわ!さッ、行きましょ。麻雪ちゃん――」
 公園から出ようと歩き始めたさとみの足が、ピタッと止まり、麻雪の方を振り返った。
「――そういえば。比嘉くんって、莎草くんと話をしたことある?」
 突然そんな話を振ってきたさとみに、比嘉は?マークを頭の上にたくさん飛ばしていた。
「いや…すれ違いざまに話したくらいかな?」
「さとみちゃん…何かあったの?」
 いきなりそんなことを言い出したさとみに、麻雪は心配そうに問いかけた。
「うん…今日の昼休みにね……莎草くん、あたしの席まで来て『俺の女になれ――』って」
 どうやら、さとみは莎草に「付き合え」、と言われたらしい。しかしさとみは、莎草のこともあまり知らないし、話したこともないので、比嘉なら何か知っているんじゃないかと思い、聞いたらしい。
「なるほどね…しかし、莎草も物好きだな。絶対尻に敷かれそうだ」
「比嘉くんッ」
「で、何か答えたのか?」
 さとみは頷いて、莎草のことをあまり知らないから、「ごめんね」と答えたと言うことだ。
しかし、さとみのその答えを聞いた瞬間、莎草はすごい形相でさとみを睨み、「俺から逃げられると思ってるのか――」と言ったらしい。
「…どういうつもりなんだ、莎草の奴……明日にでも、俺が話してみるよ」
「大丈夫…?比嘉くん」
 麻雪も心配そうに比嘉を見ている。
「いったい、さとみのどこが気に入ったのか、興味もあるしな」
 暗くなってきた雰囲気を取り戻すため、比嘉はさっさと喫茶店に行こうと提案した。麻雪はさとみの手を引っ張って、歩き始めたが、やはりさとみの顔は強張ったままだった。

「ただいまー…」
 家に帰った時刻は既に七時頃だった。龍麻だけでなく、健人や友依も既に帰宅していた。
「おかえりなさい。麻雪、遅かったわね」
「うん。ちょっと友達と喫茶店寄ってたの」
「夕飯、もうすぐ出来るから、着替えていらっしゃい」
 友依に言われて、二階の自分の部屋に入る。そして着替えてから急いで下へ降りていった。
「おかえり、麻雪」
「ただいま。お父さん、お兄ちゃん」

 夕食が終わった後、麻雪は思い切って両親に聞いてみた。
「ねぇ……聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「なんだ。答えられることなら答えるぞ」
「…緋勇弦麻って、どんな人だったの?」
 麻雪のその言葉を聞き、健人は驚きの表情で麻雪を見た。
「前にも話しただろう。……立派な兄だった。人よりも武術に優れていた、立派な男だった」
 義父の答えに、麻雪は首を振った。
「そういうことじゃなくてッ!…昨日、父様のことを知っている人に会ったの」
「―――麻雪。その人は誰だ」
「…鳴瀧冬吾さん……」
 健人と友依は互いに顔を見合わせた。そして、大きく溜息を吐いた。
「そうか…来るべき時がきてしまったのか…」
「麻雪、今はまだ話せないの…もう少し、その話はもう少し待っていてね」
 いつもと感じの違う両親に、戸惑いを隠せない麻雪。
「さあ、部屋へお戻りなさい。麻雪」
「父さんと母さんは少し話がある。龍麻も麻雪と一緒に戻りなさい」
 龍麻は無言のまま頷いて、麻雪を連れて上へ上がっていった。
「…あなた」
「仕方がない。兄貴の娘だ。……こうなるのは運命だった」
「それでも!あの娘があまりにも可哀想で…」
 友依は涙を流した。
「我慢しろ。俺たちには何もすることが出来ない…せいぜい……」
「龍麻…ですね」
「ああ。俺も一応は緋勇家の者だ。そして龍麻も…己の【宿星】は理解している――――」

「緋勇――」
 昼休み。麻雪が中庭を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返るとそこには比嘉が立っていた。
「あ、比嘉くん…」
「よお…昨日の話、聞いたか?俺も今A組の奴から聞いたんだけどさ」
「……うん、聞いた」
 その話は朝のHRで担任から聞いたのだ。何でも昨日の放課後、体育館の裏でC組の女生徒が血塗れで倒れていたと言う話だ。その女生徒は、ボールペンで自分の瞳を刺したらしい。
「いったい、何がどうなってんだか……ん?」
「どうしたの、比嘉くん…」
 何かを発見したらしい比嘉が見つめる方向を、麻雪も一緒に見た。するとそこには、莎草が立っていた。
「おいッ、莎草――」
 比嘉の声に気づいたらしく、莎草は振り返った。
「悪いな、呼び止めて……その、さとみにアプローチしたんだって?」
 莎草は何も答えないが、比嘉は一人で話を進めている。
「見掛けによらず、勇気あるじゃん。まあ、さとみは、ああ見えて女っぽいところもあるからさ、あんまり気を悪くしないでくれよ」
「………」
「…あと、さとみに限らず、女の子を脅すのはどうかと思うな。やっぱり基本は、女の子には優しく―――」
「……うるせェ」
 やっと口に出したのは、たった一言「うるせェ」だけである。
「うるせェっつってんだよ!ベラベラひとりで喋りやがってッ。ムカつくんだよ、比嘉ァッ!」
 さすがの比嘉も、莎草の剣幕に押されたらしい。
「あ…悪かったよ。そんなに怒らないでも―――」
 しかし、莎草は比嘉の話を無視し、質問をしてきた。
「……お前、人形って知ってるか?人形ってのは、人の形って書くよな?なんで、鳥や動物の人形は、鳥形とか獣形っていわねぇんだよッ」
「何を言ってるんだ…お前」
「糞みたいな汚ェ手で、俺に触るんじゃねェッ!」
 莎草の怒りと同時に、彼の周りが赤く光り始めた。
「イイ気になるなよ…比嘉」
「う、腕が…動かないッ」
「比嘉くんッ!大丈夫ッ?」
 まるで何かに取り憑かれたかのように、比嘉の腕は動かなくなっていた。
「そっちの女も……俺をナメんじゃねぇぞ」
「比嘉くんに、何したのッ?」
 怒りを露わにしている麻雪に、莎草はくくくっ、と笑った。
「俺と闘ろうってのか?…てめぇ。ナメやがって」
 莎草が麻雪に一歩近づいた瞬間―――
「おいッ、お前ら、何やってんだ?もう授業始まるぞ。早く教室に入れ!」
 偶然通りかかった教師の声が聞こえてくる。それを聞いて莎草は悔しそうに舌打ちをした。
「まぁいい…お前らは俺に逆らうことは出来ない。お前らは俺の操り人形なんだよ」
 そう言い残して、莎草は教室とは逆方向へ去っていった。と同時に、比嘉の腕は自由に動かせるようになっていた。
「これは…いったい―――」

 放課後、2ーCの教室にさとみが入ってくるのが見えた。そのまま、麻雪の方へ歩いてきた。どうやら麻雪に話があるらしい。
「麻雪ちゃん…ちょっと相談があるんだけど、いいかな」
 深刻な顔をして、さとみが言った。
「うん。私で良ければ、相談に乗るよ」
「ありがと。ちょっと人のいないところに行きたいの…ついてきて」
 言われるままに、教室を出た。水道の前まで来て、さとみは歩みを止めた。
「…あのね、話って言うのは、比嘉くんのことなの」
 比嘉は午後になってから様子がおかしく、何を聞いても関係ないと言われたらしい。
「麻雪ちゃん…何か知らない?」
「……」
 麻雪は教えて良いものか、悩んだ。言ったとしても、果たして信じてもらえるのかはよくわからなかったから。
「教えてくれなくても良いわ。でも、比嘉くんを救けてあげて…比嘉くんすごく苦しんでる…」
 最後に、お願い、と言い残して、さとみは走っていった。麻雪は比嘉を捜すために、2ーAに向かった。
「比嘉くん…いるの?」
「…緋勇」
 A組の教室に、やはり比嘉はいた。
「どうしたんだ。A組に何か用か?」
「比嘉くんを捜しに来たの」
 麻雪の答えに、比嘉は目を丸くして自分を指さした。
「何だよいったい。改まって…まさか、デートの誘いじゃないだろうな」
 茶化しながら言ったが、比嘉は言った後に後悔していた。こんなことを言って、嫌われないだろうかと、内心ではドキドキしていた。
 そして、それ以上に、冗談でも言わないと、気持ちがどこかへ行ってしまうのを恐れていた。
「……比嘉くん」
「緋勇…あのさ―――」
 何かを言いかけて、比嘉は首を振って自分を制した。
「どうしたの?」
「一緒に、帰らないか?」
「うん。いいよ」
 比嘉は少し落ち着いたのか、一言麻雪にありがとう、と呟いて、教室を出た。しかし、比嘉は終始無言だった。そして正門前まで来た頃、やっと口を開いた。
「……ちょっと待ってくれ、緋勇………」
 比嘉の言葉に、麻雪は足を止めた。
「……どうかした、比嘉くん?」
「……。……お前、平気なのか?何も感じないのか?」
 何かに怯えたような、麻雪に助けを求めるような顔をしていた。
「俺は明日香学園が怖い――こうやってこの場にいるのが怖いんだ――明日になればまた何かが起こる、きっと……」
顔が恐怖でゆがむ。
「比嘉くん―――」
「…誰もあいつに逆らえるわけがない。――莎草に」
 前に男生徒が言っていたことと同じことを、比嘉が口走っていた。
「あいつは普通じゃない。きっと…また誰かが狙われる。だけど、俺たちのような普通の人間には、どうすることも出来ない」
「そんな…」
「あいつのあの瞳で睨まれたとき、俺は身体が動かなかった。…あいつは―――」
「麻雪――」
 誰かに呼ばれた声がして、麻雪が振り返ると、そこには鳴瀧が立っていた。
「やあ。そろそろ下校する頃だと思ってね。待たせてもらったよ。少し、君と話がしたくてね。いいかね」
「え…でも……」
 比嘉の方をチラッと見た麻雪を見て、比嘉は言った。
「緋勇、俺は大丈夫だから」
 比嘉は、麻雪に心配をかけないように、そう言って笑った。
「じゃ、俺はここで別れるよ」
「ご、ごめんね、比嘉くん……」
「また…明日な」
 そういうと、比嘉は一目散に走っていってしまった。
「……ひょっとして、あの少年は彼氏かな?私は邪魔をしてしまったか」
「ち、違いますよ!!」
「フッ…まあいい。それじゃ、ついてきたまえ――」

 そのまま鳴瀧に連れられて、前に地図を書いてもらっていた道場―――拳武館の支部道場にやって来た。
「この道場は、私が校長を務める拳武館という高校の道場のひとつだ」
「鳴瀧さん…校長をしているんですかッ?」
「ああ、だから遠慮なくくつろいでくれ」
 麻雪を座らせ、自分も座ると、鳴瀧は麻雪を見て聞いてきた。
「話の前に聞きたいことがあるんだが…君は、《人ならざる力》の存在を信じるかね?」
「《人ならざる力》…」
 その言葉を聞き、一昨日の放課後の事件の話、今日の昼休みの莎草と比嘉の事件を想い出していた。
「…今年の初めから、猟奇的な事件が東京を中心に多発している。君が今体験しているような事件がね…」
「知ってるんですかッ?」
「私がこの街に来たのも、そういった事件が関係している。私はある少年を追って来たんだ」
 彼の話によると、少年は何らかの《力》、常人とは異なる《人ならざる力》を手に入れた可能性が高いとの調査結果が出ているらしい。
だが、わかっていながら鳴瀧らが手を出せないでいるのは、少年の《力》に対抗する術を私たちがもっていないからだ、と鳴瀧は語った。
「おそらく、武道に長けた私の部下でもたおすことはできないかもしれない」
 いたずらに刺激をして被害を広げることはできない、と鳴瀧は言った。そして、麻雪にたおす方法が見つかるまで静観していろ、と忠告してきた。
「……嫌です。そんなこと出来ないですッ!」
「君は、平穏な一生を送るべきだ。それが、君の御両親の願いなのだから」
 麻雪は大きく首を横に振った。黙ってみているなんてこと、麻雪には出来なかった。
「……いくら君が弦麻の血を引いているからといっても、それだけでたおせる相手ではない。ましてや君は女の子だ」
 何とか説き伏せようと努力する鳴瀧。
「わかるね。敵わない相手に闘いを挑むのは、勇気ではない。それは――犬死だ」
「そんなことないッ!」
「……私の言うことがわからないようだな。よく聞きたまえ――」
 鳴瀧は、武道の極意について話し始めた。
「………今はたおせなくても、いずれたおせる日が来る」
 退くことも闘いには大事、と麻雪に教える。
「……もう時間も遅い。奥に休める場所がある。今日は道場に泊まっていくといい。君の義父と義母には私から連絡しておこう」
「はい…お願いします―――」

 鳴瀧は奥の部屋に入ると、携帯電話を取り出して、麻雪の自宅に電話をかける。
『――はい、緋勇です』
「やあ、龍麻くん。鳴瀧だが…」
 電話に出たのは龍麻だった。
『お久しぶりです。お変わりなさそうで、何よりです』
「うむ、龍麻くんも変化はないかね」
 龍麻は、中学まで鳴瀧の道場に通って武術を習っていたのだ。つまり、鳴瀧とは師弟関係を持っている。
「電話をかけたのはほかでもない。今日、麻雪が私の道場に来ているんだが、もう暗いからここに泊めていくことになった」
『そうですか。鳴瀧さんの道場でしたら、安心して麻雪を預けられます』
「そうか。御両親によろしくを伝え願う」
『わかりました。麻雪のこと、よろしくお願いします。あと、紅葉にあったら、よろしく言っておいて下さい』
「ああ。それじゃあ」
『はい』
 電話を切ると、同時に少年が部屋から出て来た。
「館長。部屋が整いました」
「すまんな、紅葉」
 少年は、拳武館高校に所属する壬生紅葉。鳴瀧を師と仰ぎ、古武道を習っている。
「龍麻くんが、君によろしくと」
「……そうですか」
 二人は、龍麻が道場に通っていたことに、共に鍛錬を重ねていた、同志だった。紅葉は一言それでは、といって部屋から出て行った。

 すっかり夜も更けた頃、麻雪は慣れない環境の所為か、目を覚ましてしまった。ふと、道場の方へ行ってみようと考えた。
麻雪は近くに置いてあった上着を一枚羽織って道場へ向かった。すっかり冷え込んでいた道場の中は、心地よい静寂に包まれていた。
「眠れないのかね?」
 後ろから誰かに声をかけられた。振り返ると、鳴瀧が立っていた。
「ちょっと、目が覚めちゃって…」
「私は仕事があってね。今夜は徹夜になりそうだ」
 二人の間に、沈黙が走ったが、暫くした後、鳴瀧は問いかけてきた。
「麻雪…君は強くなりたいという願望はあるかね?」
「……あります」
「何のために?強くなってどうする?」
「他人を…自分の周りの人たちを、救けたいです」
「他人を?そんなことを本気で考えているのか?そんなことが本当にできると…」
 鳴瀧は溜息を吐いた。
「それでは、もし――もし、仮にだ…君の親友でもいい、大切な人が、今回の事件に巻き込まれたらどうするかね?」
 大切な人……麻雪の頭の中に真っ先に浮かんできたのは、幼い頃に出会ったあの少年―――京一の姿だった。
そして、その次に大事な家族である健人や友依、龍麻の姿。そして…友人であるさとみや比嘉の姿も。
「事件を引き起こしている者と闘うかね?相手に勝てないとわかっているとして…だ」
「もちろん闘います」
 麻雪の答えを聞き、鳴瀧は一瞬黙ってしまった。
「誰かを護るために、自分の命を賭けるなんて、馬鹿げているッ」
 声を荒げて、そう叫んだ。まるで、誰かと重ね合わせているように…
「誰かを――何かを護るために死ぬなんて、愚かな行為だ…後に残された者の気持ちを考えてみろ。その者たちの想いを――」
「鳴瀧さん…」
「お前は、それを、どうやって受け止めてやれるんだッ」
 その叫びは、麻雪に向けられたものではなかった。そう…かつて、死んでいった弦麻に向けられた言葉のようだった。
「…すまない」
 鳴瀧は、彼自身を嘲笑うかのように、フッ、と笑った。
「不思議だな……君と話をしていると、まるで弦麻と話しているようだよ。ひどく懐かしい気にさせられる…」
 そして、鳴瀧は麻雪の瞳をジッと見つめた。
「君には平穏な暮らしをして欲しい。それが――弦麻と迦代さんから託された、願いなんだ」
 昔を想い出すように、語り始めた、
「何かを護ろうとすれば、それがかけがえのないものであるほど、人は大きな代償を支払わなければならない」
「………」
「君にはそういう生き方をして欲しいとは思わない」
 再び道場の中に沈黙が広がる。それは数秒だったか。はてさて数分だったか。先に口を開いたのは鳴瀧だった。
「…明日も学校だ。少しでも休んでおくんだ」

 早朝、道場から学校へと登校した。自宅よりも近いためか、いつもより早く着いてしまった。
「――麻雪ちゃん」
 声をかけてきたのは、さとみだった。
「おはよう、さとみちゃん」
「おはよ。昨日あれから、比嘉くんに会いに行ってくれたんだって?ありがとう…麻雪ちゃん、優しいのね」
 突然そういわれて、麻雪は悩んでしまった。
「あははっ。もう…真面目に言ってるのに。……あれ?あそこにいるの、比嘉くんじゃない?」
 さとみにいわれてそちらをみると、確かに比嘉が歩いていた。しかし、おかしなことに、これから学校が始まるというのに、学校から出て行こうとしていた。
「さとみちゃん、行ってみよう」
「う、うん…そうね」
 二人は比嘉を追いかけて、学校を出て行った。しかし、明日香公園に入ったところで、比嘉の姿を見失ってしまった。
「確か、こっちの方へ来たんだけど…」
「青葉――」
 突然背後から、男生徒が声をかけてきた。その男生徒たちは、A組の生徒らしいが。
「一緒に来い、青葉」
「莎草さんがお呼びだ…」
「え…?」
「いいから来いッ」
 男生徒は、無理矢理さとみを引っ張っていこうとする。あまりにさとみが抵抗するので、男生徒の一人が、さとみを殴りつけた。
「やめなさいよッ!」
「どけ。邪魔するとお前も痛い目にあうぞ」
「あなた達こそ、ひどい目に遭いたくなければ、さとみちゃんを放しなさい!!」
 麻雪の言葉に、男生徒の一人が詰め寄ってくる。
「ざけんなよ…女だからって容赦しねぇからな」
「やっちまえッ!」
向かってくる男生徒をみて、麻雪は構えた。
「死ねッ!」
 麻雪は間一髪のところで、男生徒の拳をかわす。
「はぁ!」
 気を入れて相手の鳩尾に拳を突き込む。急所に入った男生徒は、そのまま地に伏した。
「このやろう…」
「甘いわッ!」
 さらに残りの二人を見て、麻雪は懐へ飛び込み、掌打を繰り出した。やがて二人も、先程の男生徒と同じように、倒れた。
「麻雪ちゃん…」
「くッ、こいつ強ェ…」
 男生徒は、動けない身体で呟いた。すると、後ろから誰かが出てきた。
「緋勇―――さとみ―――」
振り返ると、そこには比嘉が立っていた。
「比嘉くんッ!」
「大丈夫か?」
 比嘉はさとみに声をかけた。さとみは比嘉を心配そうな目で見つめていた。
「比嘉くん、この人たち…」
 さとみの問いに、比嘉は頷いた。すると、誰かの声が聞こえてきた。
「こいつは、丁度いい…くくくッ……」
「さの…くさ―――」
 そこには、莎草がいた。莎草は、男生徒の一人に、さとみを連れてこい、と命令した。
「やめなさいよ!」
「やッ、止めろ、莎草!」
 比嘉が止めに入ろうとする。しかし、莎草が一言いった。
「おっと、二人とも、動くんじゃねぇ!動けば…わかってるよな?」
「莎草ァ…」
「…やれっ」
 莎草の命令を受けた男生徒が、比嘉を殴り倒す。さらに、倒れている比嘉を蹴りつけた。
「ぐはッ!」
「比嘉くんッ」
 さとみが、叫ぶように比嘉の名を呼んだ。
「緋勇…後ろだ……」
 比嘉は、最後の気力を振り絞って、麻雪にそういった。
「え―――」
 麻雪が振り返るよりも早く、男生徒が麻雪を殴っていた。
「お前も、おねんねしてな…」
「比嘉くんッ、麻雪ちゃんッ!」
 麻雪の意識はそこで途絶えてしまった。

『麻雪―――強く生きろ――――』
 夢の中、麻雪は男の影を見た。その男は、力強い《氣》を纏っていた。
『誰よりも強く―――』
 その男の姿が誰であるか、麻雪には予想がついていた。
『誰よりもやさしく―――』
 朧気ながらも、しっかりと彼女の記憶に留められている男。
『そして、叶うのなら、平凡な一生を送ってくれ』
「父様ッ!」
『麻雪よ――お前の成長を見届けられない不甲斐ない父を許せ…』
 麻雪の声は届かない。それは当然だ。これは記憶を呼び起こしている単なる夢に過ぎないのだから。
『だが…だが、もしも――宿星がお前を闘いに導くなら――』
 弦麻はグッと麻雪の小さな手を握りしめ、呟いた。
『友のために闘え…かけがえのない友のためにその拳を振るえ――』
「………」
『護るべきもののためにその技を使うがいい――』
 フッと笑った弦麻は、さらに言葉を紡いだ。
『赤子のお前に、この父の声は届かないかもしれない。だが、忘れるな。《力》というものは、何かを護ろうとする心から生まれる』
「私の…《力》」
『その心が《力》になる―――それを忘れるな―――麻雪よ』

「父様ッ!」
 麻雪は目を覚ました。起きあがると、そこは見覚えのある道場だった。
「…目が覚めたかね」
 声がした方を見ると、そこには鳴瀧が座っていた。
「ずいぶんと手酷くやられたものだな。あれほど、今回の件に関わるなと忠告したはずだが」
 子供を叱りつけているような顔で、麻雪に言った。
「君たちが、どうにか出来る問題ではない」
「…比嘉くんは、どうしたんですか?」
 比嘉は自分とともに公園に倒れていた筈だ。何故ここにいないのか、気になった麻雪は鳴瀧に問うた。
「その少年の姿はなかった。連れ去られたのではないとすると、後を追ったのかもしれない」
「じゃあ、さとみちゃんは…」
「私が、あの場所に着いた時には君だけだった。そのさとみとかいう少女のことは知らないが、部下からの報告だと、明日香学園の少女がひとり、攫われたそうだ」
 鳴瀧は事実を淡々と告げる。
「今、行方を追っている。…それよりも、君は、少し休むことだ」
 溜息混じりに、鳴瀧は呟いた。
「後頭部に打撲と、身体に複数の裂傷がある。手当はしたが、まだ激しく動いていいものではない。いいね」
「でも…二人が心配なんです!」
「気持ちはわかるが、今の君では、どうしようもない。闘ってみて、十分わかったはずだ」
 麻雪を諫めるように言った鳴瀧を麻雪はジッと見つめた。
「普通の高校生相手になら、互角以上に闘えるかもしれないが、たおすべき相手は人ではない…いわば、魔人だ」
「魔人…」
「人が――しかも、一介の高校生が勝てる相手ではない。しかも君は女だ」
 悔しそうに唇を噛み締めながら、鳴瀧の言葉を聞く。
「《人ならざる力》をもった者に人間が勝てる道理はない。…現実は、非情だ。ただ、悪戯に犠牲者を増やすわけにはいかない。君も、それはわかっているはずだ」
「それでも、私は行かなくちゃならないんです!」
「…さらわれた君の仲間のことは放っておくんだ。行けば間違いなく命を落とすだろう。自分を犠牲にして、誰かを助けようなどと思わないことだ」
「でも…!」
「死んでどうなる…死んで何かを為せると思っているのか?…君は、生き続けるんだ。弦麻と迦代さんの分まで――どんなことがあっても…」
 麻雪は一度俯いた後、顔を上げて、真剣な眼差しで鳴瀧を見た。
「…私は、大切な人のために、私の力を使います。大切な人を、助けたいんです!」
 そんな彼女の姿を見た鳴瀧は心の中で(これも、血筋か――)と考えた。かつての彼の友人であった、緋勇弦麻も、自らを犠牲にして人々を救った。
娘の麻雪にも、彼の血が受け継がれていることの証だろう。
「どうしても、行くというなら、一つ条件がある」
「なんですか」
「…私の部下と闘ってもらおう。いずれも――鍛え抜かれた武闘家ばかりだ。…君の力を私に見せてもらおう」
鳴瀧が指を鳴らすと、奥から門下生が四人出てきた。
「もし――君がもし、大切な者を護りたいのなら、その思いの強さを私に見せてくれ。君の…友を想う力と覚悟を――」

 門下生との闘いは、麻雪の圧勝で終わった。
「…それが、君の答えだという訳か…フッ。因果は巡る…か」
 鳴瀧は、麻雪を見つめた。
「麻雪。今まで教えなかったが、弦麻は《人ならざる者》と闘って、命を落とした…」
「……父様が」
「人を超えた《力》をもつ―――魔人と闘って…」
 彼女の肩を掴み、言い聞かせるように言った。
「よく聞きたまえ」
 力強い麻雪の頷きに、鳴瀧は納得するように頷いた。
「人の心には、誰しも陽と陰がある。……風の流れや川のせせらぎなど…この世界を形造る森羅万象にも同じように陽と陰がある」
 一息吐くと、再び続けた。
「その陰に魅入られた者は、外道に堕ちるといわれている。人ならざる―――異形の存在へ。その法は《外法》と呼ばれ、人の世に今もなお、密やかに受け継がれている…」
「外法……」
「今回の事件や東京を中心に起こっている事件の数々も、そういった外法が絡んでいるのではないかと、睨んでいる」
 鳴瀧は、麻雪の肩から手を放し、一瞬無言になった。
「いずれにせよ、人には過ぎた代物だ…」
 吐き捨てるように呟いた鳴瀧は、再び麻雪を見た。
「明日香学園の近くにある廃屋へ行きたまえ。部下から、そこに君の捜す人物が連れ込まれたという情報が入った」
「学園近くの廃屋ですね」
「もしかしたら――君の仲間を護りたいというその心が――陰を照らし、道を切り開くかもしれない」
 麻雪の手をギュッと握りしめ、呟く。
「さっき闘った時の気持ちを忘れないことだ。真の《力》というのは、そういうものから生まれる。そういう…心の強さから生まれるものだ―――」
「鳴瀧さん…」
「生きて帰ってこい…必ず」
「約束します。麻雪は、必ず帰ってきます」

 告げられた廃屋に入る。入り口のドアはさび付いており、ギィィ、と音を立てて開いた。
「おい……」
 その音に気づいたのか、誰かが麻雪に声をかけてきた。慌てて麻雪は構えた。
「緋勇!俺だよ」
「比嘉くん!」
 声をかけてきたのは、比嘉だった。どうやら彼もここへ来たらしい。
「よかった、無事で」
「お前も。無事でよかった。それより、よくここがわかったな?」
「えっと…色々とあって…」
「ちょうど今、莎草の奴が奥へ入っていった――さとみもきっと、そこだ。行ってみよう」
「そうだね」
 二人は周りの様子をうかがいつつ、奥へ向かった。昼間だというのに、そこは暗く、周りが見えづらい状況だった。
「暗いな…緋勇、足下に気をつけろよ」
「うん…きゃッ!」
 麻雪が、落ちていた本に足を取られて、倒れそうになった。
「緋勇――!」
 慌てて比嘉が支える。そしてそのまま、比嘉が麻雪を抱きしめる形になってしまっていた。
「あ……」
 二人とも、膠着していた。ドキ、ドキ、と心臓の音が大きく響いているような気がした。
「ひ、ゆう……」
「比嘉くん…――あっ」
 麻雪が何かを見つけて声を上げた。それが導火線となって、比嘉は慌てて手を放した。
「さとみちゃんが!」
「なんだってッ?」
 麻雪の視線の先には、何かに吊されているような状態のさとみの姿があった。しかし、実際何も見えない。さとみは、何もないのに吊されているのだ。
「いったい、これは…」
 すると、少年の笑い声が聞こえてきた。…莎草だ。
「わざわざ、死にに来るとはバカなヤツらだ…」
「莎草ッ!お前、さとみに何をした!」
 しかし、莎草は答えない。まるで比嘉を馬鹿にするような目で見ていた。
「莎草!」
「何か言ったらどうなの?」
 すると莎草の身体から、赤い光が発せられていた。莎草を包み込むような赤い光。
「―――か、身体が…」
「目障りなんだよ…比嘉」
 比嘉は、身体の自由が利かなくなっていた。まるで、身体が他人の身体のような感じがした。
「比嘉くんッ!」
「緋勇とかいったか…動かない方がいいぜ…ちょっとでも動いたら、こいつもそこの女もどうなるかわかってんだろうな?」
「―――!」
 比嘉の元へ駆け寄ろうとした麻雪は足を止めた。
「…いくら足掻いたところで、お前らは、俺には敵わない。平凡なヒトであるお前らが、俺に勝つことなど出来ない」
「なんだと…?」
「比嘉。お前は《運命の糸》の存在を信じるか?」
 突然の質問に、頭が上手くついていかない比嘉。
「よく、『運命の糸で結ばれている』とかいうだろ?人の出逢いや恋は、全てそういう魂から伸びたその糸によって運命づけられているかのように」
「……」
「だが、こう考えたことはないか?《運命の糸》は、人と人とを結びつけているものではないのではないか…と」
「なにを言い出すの…?」
「魂から伸びるその糸は、神の元へ繋がり、その御手によって操られてるのではないか、とな」
 熱く語っている莎草。まるで自分の世界に入ってしまったような気さえする。
「神が気紛れに操ったその糸によって、人は動かされている。まるで…操り人形のように」
「それじゃ、俺たちの一生は、神によって、操られているってことか?ばかばかしい…そんなの妄想だ」
 そう呟いた比嘉の言葉に、莎草は反応した。
「妄想…?平凡なお前らには、一生、知ることのない世界かもしれないな」
「何だと…」
 莎草は、クククッと笑い、比嘉を見た。
「明日香学園に転校してくる前、東京にある別の高校に通っていた俺は、ある日自分に不思議な《力》が宿るのを感じた」
「……?」
「きっかけは、簡単だった。友達と行ったゲーセンで、見知らぬヤツらに絡まれた時だ」
 すっかり自分の世界の莎草は、淡々と語り出していた。
「……殴りかかってくるヤツらから逃れるために、俺は念じたのさ。こいつらが、追ってこなければいい――って。あの角で、こいつらが躓けばいい――ってな」
「……」
 麻雪も比嘉も、莎草の話に耳を傾けていた。
「その瞬間だった――急に、そいつらの一人が、アスファルトに向かって倒れ込んだのは――トマトが潰れるような音を立てて、そいつは、顔面から激突した」
「……」
「だが、異変はそれで終わりではなかった。残った奴の内の一人が、突然車道に飛び出すと、走ってくるダンプに突っ込んだ」
「――ッ」
 想像しただけで、気持ち悪くなる話だった。
「通行人たちも、カエルのように潰れたそいつを呆然と見ていた。誰の目にも、そいつがいきなり走り出して、車道に飛び出したようにしか見えなかった」
 莎草は思い出を語るように、言葉を紡いでいる。
「しかし、俺だけは――それが偶然の出来事じゃないことがわかった」
「……」
「そのとき俺は気づいたのさ。そいつらや通行人たちの身体から、細い糸のようなものが、空に向かって伸びていることに――」
 今度は麻雪を見て話し始めた。
「その日を境に俺は――まるで使い慣れたコンポを操作するように――乗り慣れた自転車を乗りこなすように――他人を思いのままに操れるようになっていた…」
「操る…?」
「そうだ…人間は皆、神によって操られている傀儡に過ぎない。だが、俺はその神の《力》を手に入れたのさ――」
 再び莎草の身体が赤く光り始めた。そして莎草は比嘉を見た。
「うッ…腕が勝手に…」
 比嘉は、自分自身の首を自分の手で絞め始めた。
「比嘉くん――!」
「見えるぞ…お前の魂から伸びている《運命の糸》が」
「バカ…な……」
 そう返す比嘉だが、その声は苦しそうだ。
「《運命》を逆から読むと《命運》――正に俺は、人の《命運》を握っていることになる」
「くっ…」
「お前は、自分で自分を殺すんだ…比嘉。俺に楯突いたことを悔やむがいいさ…」
 比嘉は苦しそうにしている。自分の手が言うことを利かず、彼自身の首に食い込んでいるんだろう。
「やめなさいッ!」
「…比嘉を始末したら、次は緋勇――お前を始末してやる」
「ふざけないで!比嘉くんを放しなさいッ!」
「いつまで、そうやって強がってられるか、楽しみだ。女が乱れながら死んでいく様が、な…」
 くくくっと笑うと、麻雪を見た。
「俺は直接手は下さない。他人が見れば、お前らが自殺したようにしか、見えないだろうよ」
「くそっ…」
「泣いて頼めば、命は救けてやってもいいぜ、比嘉。え?どうすんだ?」
 その言葉に、比嘉は何か言っているようだが、あまりにも小さい声なので、聞こえない。
「ん?何だと?」
「くそ…喰らえ……だ」
 莎草は、再びジッと比嘉を見た。すると、比嘉の手に、さらに力がこもった。
「誰に向かってものを言ってるんだ…まだ、自分の立場がわかってないようだな――」
「くっ…!!」
「もう、お前は死ね…比嘉」
「止めなさいッ!」
「緋勇。お前はそこで、比嘉が死ぬのを見届けるんだな」
「そんなこと出来るわけ無いじゃないッ!」
 麻雪の言葉に、莎草は無言で見つめてきた。
「…そうか、わかったよ。貴様から先に始末してやるぜ――緋勇ッ」
「緋勇…」
 麻雪は、父・弦麻の言葉を想い出していた。
(大切なものを護るために……強くなれ。私は、強くなるの!!)
「誰も俺を止めることなど出来ないッ!」
 莎草は高笑いをあげながら叫んでいる。しかし、麻雪の耳には聞こえてこなかった。

       目醒めよ――――

 誰かの声が。何かの声が。麻雪にいった。それと同時に、麻雪の身体が蒼く光り始めた。
「なッ、何だ、この光は――くそッ!!俺の《力》でお前を操ってやる!操って―――ッ?」
 莎草が、取り乱した。
「おッ、お前の糸が見えないッ、そんなバカな――!」
「そんなの、私には通用しないわ」
「緋勇…お前……」
「そんなバカな…俺は、《力》を手に入れたんだ…お前なんかに……負けるわ…け…うッ……ぐおォォッ!!」
 莎草は、叫びながら光を強くしていった。そして、閃光が走り……莎草は異形の怪物に変化していた。
「さ…の…くさ…」
「ガアァァァァッッッ!」
「緋勇…逃げろ……はや…く…」
「私は大丈夫!比嘉くん、さとみちゃんと安全なところに!」
「でも…」
「私を信じてッ!お願い!」
「……わかった」
 比嘉は麻雪の言葉に頷き、床に倒れ込んでいるさとみの元へ向かった。そして、麻雪は莎草と向き合った。
「やぁッ!」
 莎草に、龍星脚を食らわせる。
「…流石に一撃じゃ無理ね…」
 麻雪は背後に回り込み、さらに一撃を加える。
「グワァァァ!」
 対する莎草も、鋭く尖った糸を、麻雪に向けて放ってくる。
「ッッ!」
「緋勇ッ!」
「お返しよ!」
 再び莎草に龍星脚を放つ。
「ギャアァァァァァッッ!」
 莎草は、そのまま消えてしまった。…文字通り、無くなってしまったのだ。
「いったい…なにが……」
「う…うん……」
「さとみちゃんッ!」
「麻雪、ちゃん…」
「ああ。緋勇が救けにきてくれたぞ」
「う、ん…莎草くん…は?」
 自分を連れてきた莎草がいないのを不思議に思ったんだろう。比嘉は、言葉を濁した。
「緋勇…俺にはもう何がなんだかわからない。いったい莎草はどうなったんだ…?」
「私にも、よくわからないよ…」
 麻雪は、友人たちのため、半分嘘をついた。だが、実際麻雪自身にもよくわかっていないところがあるため、半分は本当にわからないのだった。
「…とにかく、病院へ行こう。さとみを手当てするのが先決だからな」
「比嘉くん、ごめん…私、行かなきゃいけないところがあるの。さとみちゃんを…お願い」
「…わかった。じゃあな、緋勇」
 麻雪は二人と別れ、道場へ向かった。

「無事に還って来たようだな――よく、生きて還ってきた」
「はい…ご心配をおかけしました」
「彼のことと事後処理は私に任せておくといい。部下に傷の手当てをさせよう。今日のところはゆっくり休みたまえ」
 鳴瀧は指を鳴らし、門下生を呼びつけた。
「紅葉、彼女の傷の手当てを」
「わかりました。館長」
 紅葉は、失礼、と一言いって、傷の手当てを始めた。そして手当が終わると、すぐさま戻っていってしまった。
 麻雪は通された部屋でぐっすりと眠りに落ちていった。

「…龍麻。今、鳴瀧さんから連絡が来た」
「麻雪はやっぱり弦麻義兄さんの娘なのですね…」
 健人と友衣は、龍麻と向かい合わせで座っていた。
「お前や麻雪と離れるのは辛い。しかし、それは耐えねばならないのです」
「龍麻。お前は麻雪とともに、新宿に行ってくれ」
 龍麻は頷く。
「麻雪に危険が及ばないよう、しっかりと守護してやって欲しい」
「わかってる。父さん、母さん」
「麻雪の【蔭】となって、身代わりを務めるのよ」

 次の日の朝、目が覚めると、横に鳴瀧が座っていた。
「目が――覚めたかね?おはよう」
 真剣な面持ちでこちらを見ている。
「麻雪…君には先天的な武道の才がある。やはり、君の身体には緋勇の血が流れている―――あの弦麻の血が」
「父様の…血」
「君は――父親のように強くなりたいか?」
 鳴瀧の問いに、麻雪は力強く頷いた。
「そうか…では、大切なものを護り抜く自信はあるか?」
「あります」
「大した自信だな。だが、気をつけることだ――いつでも、護ろうと思って、護れるものではない。君は何かを失った時、その哀しみに耐えられるかね」
 これは、麻雪に対する忠告と進言だった。
「それを、乗り越えられなければ、強くなることなど出来はしない」
 鳴瀧は、何かの書類を渡してきた。
「これは…?」
「……新宿へ行きたまえ。新宿の真神学園へ――」
 一息吐いた後、鳴瀧は自嘲的に笑った。
「いや…君は行かなければならない。君の《力》を必要とするものたちのために」
「私の《力》を必要とする人たち…」
「君の《力》はまだ未熟だ。そう――まるで、産まれたての雛のようにね…」
 鳴瀧はどこか遠くを見ているようだった。
「この道場へ通いたまえ。君に、古武道を教えよう。弦麻と私が体得した古武道を。だが、私は君に、私が修めた技を教えようとは思っていない」
「それじゃあ…」
「君は、弦麻が修めたものと同じ、この古武道の表の…陽の技を覚えるべきだと思っている」
 ギュッと握り拳を握った。
「当然ながら、その奥義までは私も知らないが、それは君が修練する内に体得していけるものだと信じている」
「出来るでしょうか…」
「必ず出来る。弦麻の意志を継ぐためにも…頑張ってくれ。何なら、龍麻くんと一緒でも構わない。彼が一時期通っていたのは知っているだろう?」
 麻雪は頷いた。
「……とにかく、今日のところはもう家に帰りなさい」
「はい」
 鳴瀧に言われ、麻雪は自宅へと戻る。

「…ただいま」
「おかえりなさい、麻雪」
 友依はいつものように麻雪を迎えた。そして、健人や龍麻の待つ居間へと連れて行った。
「麻雪。鳴瀧さんに話は聞いた」
 健人と向かい合わせに麻雪が座ったのを見て話し始めた。
「来年、お前が高校三年になる前に、真神学園への編入を手続きするそうだ」
「麻雪を一人で行かせるのは心持たないから、龍麻も一緒に新宿へ行くわ」
 その言葉を聞き、麻雪は龍麻を見た。
「安心しろ、麻雪。俺がついて行くから」
「生活費や他は、兄さんが残した遺産がある。通帳を預けるから、これで暮らすんだ」
「父さんも母さんも、麻雪と離れて暮らすのは寂しいわ。でも、仕方がないの」
「はい…」
 麻雪は項垂れたが、すぐに顔を上げた。
「今日は、ゆっくり休みなさい」

 転校のことを、担任に話した麻雪だが、比嘉とさとみには未だにそのことを話してはいなかった。いや、話をするタイミングを逃していた。
 やがて二学期が終わり、冬休みに入った。
「麻雪、明日新宿の真神学園に行こう。手続きがあるから」
「うん」
 兄と共に東京へ向かったのは、クリスマスまであと一週間、というような日だった。新宿の街は、すっかり飾り付けられ、いつクリスマスがやってきてもおかしくないような状態だった。
「東京って…すごいね」
「ああ。いつもこんな感じなんだ」
 麻雪と龍麻は、真神学園に到着した。
「麻雪、行くぞ」
「…うん」
 真神学園につくや否や、麻雪は懐かしいような《氣》を感じた。
「――――お兄ちゃん、ごめん。ちょっと待ってて」
 そのまま麻雪は走り出していってしまった。
「おい、麻雪―――!」

 真神学園2ーCの教室。冬休みだというのに、二人の男生徒がこの教室にいた。
「あーあ。もうすぐクリスマスだって言うのに、俺は一人寂しくなにやってんだろ」
 机に突っ伏している赤髪の青年は、ブツブツと文句を言っている。
「京一。仕方ないだろう」
 赤髪の青年――蓬莱寺京一は、真正面の椅子に座っている体格の良い青年に諫められた。
「醍醐ォ…何が悲しくてこんな補習を受けなきゃ何ねぇんだよ」
  京一と旧知の仲である醍醐雄矢は溜息混じりに漏らした。
「成績の悪いお前が悪いんだろうが。…それに、お前がどうしてもというから、俺がわざわざ補習に付き合ってるんじゃないか。俺は、もう部活に行くぞ」
 醍醐はそう言って教室から出ていった。
(そういや、今朝…懐かしい夢見たっけ…)
 一人になった京一は、今朝の夢を思い出していた。まだ自分が幼い頃出逢った少女の夢。
(麻雪、か……)
 ウトウトと眠りそうになった京一はふと、足音と教室のドアが開く音がした。先生でも来たのかと思い、眠い目を擦りながら起きあがると、見たことのない制服を着た少女が立っていた。
「……京一くん?」
 聞き覚えのある声に、一気に目が覚める。立っていたのは漆黒の長い髪の少女。
「麻雪ッ?」
「やっぱり京一くんだッ!」
 麻雪は兄と別れ、校舎内に入ると、この教室に向かっていた。もちろん何の考えもなく、ただ何となくこの教室に引かれていたのだ。最初赤髪を見たとき、もしかしたら…と思い、麻雪は声をかけた。
 麻雪はゆっくりと京一の元へ近づいてきた。
「ど…うしたんだよ、こんなとこで」
 京一が驚くのも無理はない。この真神学園に麻雪がいるはずはないのだから。
「来年、この学校に転校してくるの。でも、…京一くんにまた逢えるとは思わなかった」
 嬉しそうに小さく笑う麻雪を見て、ドキッとした。
「そ、そっか」
 京一は麻雪の顔を見た。
「…?麻雪、右目どうしたんだよ」
「あ、これ?カラコンしてるの。鳴瀧さんが、目立つと良くないって」
 聞き慣れない名前が出てくる。
「鳴瀧さんって、父様の友達で、京一くんの師匠の神夷さんとも知り合いなんだって」
「へーそーなんか」
 二人が笑って話していると、教師が一人教室へ入ってきた。
「蓬莱寺、まだ終わってなかったのか」
「げ……犬神」
「犬神先生だろ、蓬莱寺。……ああ、転入生の緋勇、か。兄が探していたぞ」
 京一は、学園の生物教師である犬神杜人に、麻雪を職員室へ連れて行くように言われ、足早に教室から出て行った。

「しつれいしまーす」
「アラ、蓬莱寺クン。補習は終わった?」
 京一の担任であるマリア・アルカードに言われて、違う違う、と手を振る。
「転入生の…」
「麻雪ッ!」
 奥の応接室から、龍麻が出てきた。麻雪がどこかへ行ってしまった後、仕方がないので、一人職員室まで来ていたのだ。
「どこに行ってたんだ。勝手にどこかへ行っちゃ駄目だろう」
「ごめんなさい」
「まあ、緋勇クンがもうすっかり手続きをしたから、今日はもう帰っていいワ」
 二人はマリアに、また来年会えるのを楽しみにしてる、と言われた後、職員室を出た。その後をちゃっかり京一も着いてきていた。
「…君は?」
「あの…前に話した、京一くん」
「ああ、君が…」
「ま、俺はもう帰るな」
 京一は小さく呟く。
「また来年、ここで逢おうな。そっちの…」
「麻雪の兄の龍麻だ」
「おう、龍麻。とにかくよろしくな。じゃあなッ」
 そのまま京一は走っていってしまった。そして、麻雪と龍麻も帰路へ着いた

 そして、三ヶ月の期間は、あっという間に過ぎた。
「緋勇―――」
 終業式が終わった後、麻雪は帰り道に比嘉に声をかけられた。
「よォ」
「あ、比嘉くん」
 比嘉は、少し寂しそうな顔で麻雪に聞いた。
「……あのさ、転校するんだろ?」
「うん……」
 麻雪が頷くのを見て、比嘉は俯いた。
「それなら、俺、最後に言わないとな……緋勇」
 顔を上げ、麻雪の手をギュッと握った。
「俺、お前のこと好きだった。初めて逢った、あの時から」
「―――」
「迷惑だってのはわかってる。けど、気持ちだけは伝えておきたかったんだ」
「比嘉くん…」
「い、いや。返事はいいんだ。大体わかってる」
 照れ隠しに頭をかきながら、比嘉は続けた。
「……緋勇…元気でな」
「うん…私、比嘉くんのこと、大切な親友だと、ずっと想ってるから」
「はははッ。ありがとう…そう言ってもらえて、ずいぶん気が楽になったよ」
 最後に二人は握手をして別れた。
「あーあ…ふられちゃったね」
 麻雪が去ったのとほぼ同時に、木の陰から少女が出てきた。
「うわッッ!さとみ、お前……」
「一部始終見させて頂きました。いやぁ…比嘉くん、熱血玉砕だねぇ」
「まあ、でも親友っていってくれたから…また、いつか逢えるよな」
「もちろんよ。なんなら二人で会いに行きましょうよ」
「そうだな」
 二人は麻雪の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。

「…お前さんも酔狂だねェ」
 拳武館の支部道場で、男が二人話し込んでいた。
「あんな餓鬼の世話焼いても一文の徳にもならねェ」
 喋っていない男が、フッと笑った。
「相変わらず、無駄な労力をかけんのが好きだな。あの病気の母親を抱えた餓鬼も、世話してやってるそうじゃネェか」
 男は笑ったまま何も言わなかった。
「あんまり甘ェことやってると、いつか足元すくわれるぜッ」
「ほう…」
喋っていなかった男の方は、物珍しそうに、もう一人の男を見た。
「なッ、何だよッ!」
「お前の口から、そんな台詞が聴けるとは思わなかった。月日は、人を変えるものだな。え?――神夷」
「うッうるせェッ!」
 鳴瀧に大声で怒鳴りつけた神夷京士浪。と、同時に、奥から女性が一人現れた。
「あなた。そろそろ行かないと」
「おう、龍華か。…もうそんな時間か」
 神夷の妻である龍華が出立の時間を伝える。
「東京の未来を、あんな小娘に任せなきゃならねぇのは心苦しいがよ、俺はやり残したことがある。二・三年中国へ行ってくるぜ。後はお前に任せた」
「気紛れな男だな」
「俺が昔鍛えてやった餓鬼も、新宿にいる。あいつは間違いなく、あの小娘の手助けをするだろうよ。ま、それじゃあな」
「ああ。気をつけろよ。龍華さんも…」
「はい。鳴瀧さんもお気をつけて下さいませ」
 二人は道場を後にした。一人残った鳴瀧は、これからのことを考えていた。
(弦麻――見ているか、弦麻――お前の娘は旅立った。因縁と宿星が導く都へ―――)
 空を見上げ、まだ二十歳にもならぬ少女の身に宿る宿星がもたらす《運命》の重さを考え、胸を痛める。
(俺もお前と共に見護ろう。お前の娘が何を為すのか―――お前の娘の未来を――)
 過去に約束した親友との約束。鳴瀧は少女の行く末に陽があたることを祈った。

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